昭和20年3 月10日未明、米軍機B29による焼夷弾爆撃で東京下町は火の海となり一夜にして焼け野原となりました。
この東京大空襲は死者10万人以上、広島・長崎の原爆に匹敵する犠牲者を出したと言われています。
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その日迫る火の手に追われ防空壕を飛び出した私達家族は総武線線路方向に逃げました。土手を駆け上ると、そこは焼け出された人々で一杯でした。亀戸中が火の海となり熱風と火の粉が私達を襲いました。震災を経験していた父は線路の砂利を手で掘りわづかに残ったひんやり冷たい空気を私たちに吸わせたと聞いています。
一夜明けて私達家族は小岩にある同業者を頼って歩き出しました、途中目にしたのはあまりにも悲惨で凄惨なものでした。
当時私は満5歳、記憶もきわめて断片的で、その後まわりの人から聞いた話などが脳裏で入り混じりそのイメージは二重像となり確かなものではありません。しかし総武線土手から見た第二精工舎の窓という窓から炎が猛烈に噴出していた事、馬が四足を空に向け焼け焦げていた事、逃避行の途中小松川橋たもとで婦人会の方々の炊き出しの「おにぎり」を頂きかぶりついた事だけは今でもはっきり記憶に残っています。
平成21年8月15日
大林酒店・店主 藤村栄三
灯篭流しの翌日、中川の土手を歩くとボートを練習する若者の声が水面にこだましていました、一体あの沢山の灯篭はど何処へ流れて行ったのでしょうか・・・・・一つも見当たりません。
今日も快晴夏日・・平和です。